はなこがねむし
泣きたい夜に 泣きたい夜さ
金に負けるんじゃねえ へこむんじゃねえ
勝負し続けよう 負けてばかりだけどさ
粘れ粘れと強く思う 明日は明日の朝を迎える
俺たちはあの日滑り込んだ 頭から滑り込んだヤツもいた 眼鏡飛ばして
俺はその瞬間のことを子供にも話してやりたい 遠く離れているけれど
昔やれたことは今でもできる 逆に昔やれなかったことが今できたりする
俺のこの身体 ときに自分の性格が嫌になるが それでも自分のことが好きでさ
Yeah Yeah Yeah 負けるなよ
Yeah Yeah Yeah 負けるなよ
曲はもう書けないと思っていた。曲を書くには、詞が書けるような生き方をしていなければならないからだ。ところが、書き上げることができたのは、環境の変化によるものだろう。
事務所を移転した。二部屋あり、一部屋は仕事用、もう一部屋は応接用。仕事用の部屋には不満があるが、応接用の部屋は概ね満足している。部屋にギターを置いたところ、時々爪弾くようになった。
杉並から小平に移転して、デメリットもあるが、曲が書けることを確認できたメリットは、僕にとって大きなものだ。曲が作れる生き方をしているではないかと。
僕はやがてまた歌を歌うだろう。昔の友はきっとこういうだろう。
「やっぱりちょくちゃんやね」(27.12.29)
頭が悪いから行政書士をやっている(ついでに社労士も)。頭が良ければ別の士業をしている。だからといって、頭が悪いことに甘んじる気は毛頭ない。頭の悪さは肉体性で補うべく努めている。例えば、言葉は肉体。肉体性を帯びた言葉こそがその人の言葉。借りものの言葉で話す人は信用しない。
あるいは、こんなエピソード。先日、ソフトボールの大会があった。野球経験のないある選手、3塁手の頭上を越すクリーンヒットをレフト戦へ放った。おそらく彼はその時の掌の感触を今でもはっきりと覚えているはず。僕も5年ほど前になるが、レフトの金網を越えるホームランを打ったことがある。その時の感触は、今でも思い出すことができる。僕が彼にお願いしたいのは、その感触をぜひ子供に話してほしいということ。打撃理論を話すことはできなくとも、打った瞬間の感触は伝えることができる。それこそが肉体性だと思うから。(27.12.11)
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